中城城(なかぐすくじょう)跡

画像中城城は名将・護佐丸(ごさまる)が王府の命
により移り住んだ城で戦禍を免れ沖縄で最も
原形を留めていると言われる美しい城です。



◆行き方◆
中城城跡は沖縄県中頭郡北中城村にあります。
旭橋の那覇バスターミナルから30系「泡瀬東線」で約60分「久場」
で下車後、徒歩約15分で着きます。バスは20分間隔くらいで走って
います。ガイドブックなどでは「中城小学校前」で下車と書いてある
場合が多いのですが、ここからだと徒歩で45分くらいかかります。
那覇方面から乗った場合、先の「久場」まで行ってバスの進行方向
にしばらく行くと久場公民館があるのでその手前を左折して細い道
を登っていくと近道になります。途中は一本道なのでまず迷うことは
ないと思います。



中城城(なかぐくすじょう)は14世紀後半に先中城按司(さちなか
ぐすくあじ)が築城したと言われていますが詳細については判って
いません。
14世紀から15世紀に入ると中山王であった尚思紹(しょうししょう)
が琉球王国として三山を統一し、第一尚氏王統時代が始まりますが、
その初期においてはまだまだ王国の権力は弱く、按司(あじ)と
呼ばれていた各地の権力者が力を持っていました。
特に勝連半島に位置する勝連按司であった阿麻和利(あまわり)は
勢力を強めていました。
それを警戒した第3代の国王である尚忠王(しょうちゅうおう)は座喜味
(ざきみ)城に居城していた護佐丸(ござまる)を中城城に送って警
戒にあたらせました。中城城は中城湾を挟んで
勝連城を対岸によく見ることのできる城です。

勝連城と阿麻和利の話については先日のタイトル:「勝連城跡」
に書いていますのでそちらも参照してください。
阿麻和利と護佐丸はお互いに警戒しながらその勢力をどんどん強めて
いったため、第一尚氏王統は阿麻和利だけでなく、護佐丸に対しても
次第に警戒心を抱くようになっていきました。
そんな状況を知った阿麻和利は画策し、変装して王府のある首里城に
のぼり、護佐丸が謀反をくわだてていると嘘の密告します。
それを聞いた当時の第6代国王であった尚泰久王(しょうたいきゅう
おう)は密告を信じて中城城への攻撃を阿麻和利に命じました。
もともと王府に対して忠誠心の強かった護左丸は、王府軍の名を
掲げた阿麻和利に抵抗はできず自害したと伝えられています。

これが有名な「護佐丸・阿麻和利の乱」で1458年に起こったとされて
います。その後、阿麻和利も王府軍によって滅ぼされたのは
「勝連城跡」のブログでも書いた通りですが、実はこの争いは第一
尚氏王統側の仕組んだシナリオだったのではないかとも言われて
います。確かに変装したと言っても阿麻和利と判らないとは考え
にくく、また一人の名も知らぬ者からの密告を王府が信用するとは
思えず、この話は怪しい感じがします。実際に2人が滅んだあと
王府の権力は強まって琉球王国の統一を確実なものにしていき
ました。

ただそんな第一尚氏王統も金丸(かなまる)のクーデターによって
1469年には王権を奪われて滅び、政権交代がおこなわれて第二
尚氏王統の時代へと移ったので、「護佐丸・阿麻和利の乱」のあと、
10年程度しか続かなかったことになります。この辺りの歴史の流れ
を調べてみると本当に面白いものがあります。
そんな護佐丸の生涯については阿麻和利と同じように琉球舞踊にも
なっているそうです。


琉球王朝統一の上で重要な位置づけにあった中城城は、複数の
城郭が連なった連郭式の城で6つの郭から出来ています。
先中城按司が築城した際には「南の郭」、「西の郭」、「一の郭」、
「二の郭」を造り、その後移ってきた護佐丸が「三の郭」、「北の郭」
を造り上げたと言われています。
この6つの郭の石垣は時代の流れを示すかのように3種類の石の
積み方が見られて学術的にも貴重な城なのだそうです。
まず最初に作られた「南の郭」は『野面(のづら)積み』と呼ばれる
自然の石をそのまま積み上げた形の石垣です。その後の「一の郭」、
「二の郭」あたりは『布(ぬの)積み』と呼ばれる四角い形に成形された
石を積んだ石垣へと進化し、護佐丸が移り住んだ後の「三の郭」、
「北の郭」では『亀甲(きっこう)積み』と呼ばれる五角形や六角形に
切られた石材を組み合わせるように並べる方法で積まれています。
『亀甲(きっこう)積み』は沖縄では『相方積み』とも呼ばれています。



■中城城への道
 「久場」のバス停で降りて久場公民館の脇の道を登っていきます。
 こんな感じの道が続いていきます。
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■中城城への道2
 道の途中では中城湾がきれいに見える場所が何箇所かあります。
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■中城城跡入り口
 中城城跡の入り口です。ここで観覧料を払って左の道を城へと
 登っていきます。右側の道をいくと城の正門に直接行けますが
 観覧入り口は城の正門とは反対の奥の位置にあるため、観覧
 ルートとしては裏門から城内に入って正門に抜けるようになって
 います。
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■世界遺産登録の記念碑
 中城城跡は2000年に「琉球王国のグスクおよび関連遺産群」の
 1つとして世界遺産登録されています。毎度おなじみの記念碑です。
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■三の郭の城壁と前庭
 まずは「三の郭」の城壁が見えてきます。後から作られたため
 「新城(みーぐすく)」とも呼ばれています。前面には芝生が広がって
 いて、その上に美しい曲線を描く城壁がそびえ建っていて、見上げる
 と天空の城「ラピュタ」のようでとてもかっこいい城です。
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■裏門
 きれいなアーチ型をした裏門です。観覧の順路としてはここから
 場内に入っていきます。門の脇には寒緋桜(カンヒザクラ)が
 咲いてました。
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■裏門2
 城内側から見た裏門です。本当に美しい門です。
 「黒船」で有名なペリー提督とその艦隊は1853年に浦賀を訪れる
 前に琉球に立ち寄っていて中城城を測量したそうです。その際に
 「要塞の資材は石灰石でその石造の建築は賞賛すべき構造のもの
 であった」と『日本遠征記』に書き残していて、中城城を絶賛したそう
 で、特にこの門をペリーは「エジプト式」と賞したそうです。
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■北の郭から裏門方向
 「北の郭」方向から裏門を見たところです。石垣の下が「北の郭」、
 正面の門が「裏門」、右の階段が「三の郭」に上がる階段です。
 こうしてみると裏門は「三の郭」の横のかなり低いところにあり
 ますが、これは敵が攻めて来た時に上から攻撃できるようにする
 ためと考えられています。さすがに戦術家であった護佐丸が設計
 した城郭です。
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■三の郭
 護佐丸が作ったとされる「三の郭」です。隣にある「二の郭」とは
 直接つながっておらず、一度「北の郭」を通ってから「三の郭」に
 行くようになっています。またその階段は非常に急で登りづらく
 なっていて、これらも敵に攻められにくくするための護佐丸の
 アイディアと考えられています。
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■二の郭
 「二の郭」です。ここは先中城按司(さちなかぐずくあじ)が作ったと
 される部分です。城壁の石垣は二段になっていて内側に人が通れる
 ような道が作られています。これは「武者走り」と言われていて、
 身を隠しながら敵を見張ったり、矢を射たりするためのものだそう
 です。
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■一の郭
 「一の郭」は中城城の中で最も高い位置にあり面積も最も広い
 郭です。正面に見える門は「一の郭」と「二の郭」の間を結ぶアーチ
 型の門です。門の向こうが「二の郭」になります。
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■一の郭2
 「一の郭」にはかつて正殿があったとされ礎石が残っています。
 正面に見える門は「南の郭」に通ずる門です。こちらの門は修復の
 ために木の枠がはめ込まれていました。
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■南の郭
 「南の郭」です。ここにはたくさんの拝所があって、中城城の聖域と
 されている場所です。写真は「雨乞いのための御嶽(うたき)」です。
 この他に神の宿る島と言われる久高島を拝むための「久高遥拝所」
 首里城を拝むための「首里拝遥拝所」などがあります。
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■正門
 中城城跡の正門です。南の郭方向から見たところです。
 こうしてみると正門はかなり低い位置にあり、拝所のある南の郭に
 行くためにはかなり急な階段を登っていく必要があります。
 正門は他の門に見られるようなアーチ型ではなく、2つの石門の間
 に櫓(やぐら)が乗った「櫓門」といわれる形をしています。
 ただ現在は櫓は乗っていないため、石垣が狭くなっているだけの
 場所という感じで、「門」には見えません。
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中城城跡
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